OB紹介
氏名
釜 田 隆 (かまだ たかし)
勤務先
釜田歯科医院
〒653-0843 神戸市長田区御屋敷通2-3-1
HPはこちらから
日本歯科麻酔学会認定歯科麻酔専門医・評議員、日本障害者歯科学会認定医
大阪歯科大学非常勤講師、兵庫歯科学院専門学校講師、こうべ市歯科センター出務歯科医
プロフィール
1968年 10月
神戸市生まれ。神戸市立摩耶小学校、神戸市立上野中学校卒業
1984年 4月
神戸高校 入学(39回生) 野球部に入部
1987年 3月
同校 卒業
1988年 4月
大阪歯科大学 入学
1994年 3月
同上 卒業  歯科医師国家試験合格
1994年 4月
大阪歯科大学歯科麻酔学講座入局
2002年 3月
大阪歯科大学大学院卒業(歯学博士)
2002年 4月
釜田歯科医院 開業現在に至る
現役時代のエピソード
高校時代の試合にて
兵庫高との定期戦では13年振りに勝利した!(市民球場にて)
大学時代の試合にて

私は中学生の時も野球部でしたが、三年生の時にやっと背番号を付けることができたような補欠選手に過ぎませんでした。しかし誰よりも野球が大好きだったので高校入学と同時に迷うことなく野球部に入部しました。まだまだ厳しい伝統が部内に残っており、挨拶や時間をはじめ上下関係にはとても気を遣う下級生時代でした。
・・とはいえ自分が主将になった上級生時代も後輩達に同じように気を遣わせてしまったので、この場をお借りしてお詫びしたいと思います。・・。

当時は体罰に対してまだまだ寛容な時代でしたが、我が部においては暴力行為や理不尽ないじめをするような部員は一人もいませんでした。厳しい上下関係の中にもお互いを思いやる気持ちがあり、先輩は既に大人として自立しているように見え、自分もそうなりたいと思える上級生のいた野球部でした。
私は他に希望者がいないということから高校からキャッチャーになりました。しかし経験不足もあり、チームには随分迷惑をかけました。バッテリーを組んだ一学年下のエースは、後に中日ドラゴンズからドラフト指名されるという物凄いピッチャーでした。飛びぬけた体格と素質を持ち、150キロ近い豪速球にはキャッチャーとして恐怖さえ覚えました。彼が三年生時は、進学校の逸材としてマスコミにも注目されるようになりました。

私の方は試合中に主将としてチームを引っ張っていくことよりも、とにかく彼のボールを受け止めることに必死でした。 「パスボールもいっぱいしたな~」多分数えきれない程・・・。正直なところ、僕がキャッチャーじゃなかったら・・もっともっと甲子園に近づいていたかもしれません。
卒業後、彼には一度も会っていませんが、もし再会できたなら、まずは僕のような選手とバッテリーを組み、我慢し続けてくれたことに感謝の気持ちを伝えたいです。

学業に関しては正直にお話ししますと、私の在学中の成績はひどいものでした。テストではおそらく学年でワースト10に入る位の順位だったと思います。笑い事ではありませんが、よく三年で卒業できたなと思います。野球に必死だったこともありますが、「もっとしっかり勉強しておけば・・」と当時の自分の学業に対する甘さを今も悔いています。
今回、後輩達には悪い見本として知っていただきたく敢えて告白させていただきました。 「恥ずかしいですが・・・。」
ただし、野球部の同期生達はみな成績優秀でした。東北大、九州大、早稲田大などの有名大に進学し「文武両道」をきっちりと実践した仲間達でした。

現役生へのメッセージ

私は一浪後、私立の歯科大学に進学し野球を続けました。
部員が9人ギリギリということもあるような野球部で、近畿学生リーグ最下の三部でも最下位争いの常連でした。そのようなチームですから一年生から試合に出場していましたが、総合大学のチームにはラグビー的スコアで負けることも度々でした。
しかし野球を愛するという気持ちはずっと変わらず、高校時代に培った野球への真摯な思いは大学野球でも実践できたと自負しています。

余談ですが、大学でも高校時代ドラフト候補になった後輩ピッチャー(大阪府・夏ベスト8進出)とバッテリーを組みました。彼の活躍などで、あと1勝で三部優勝というシーズンもありました。歯学部の野球部だけで行われる全国大会では優勝も経験しました。
私の話とはあまりにレベルが違い過ぎますが、今年のNPBドラフト指名を受けた京都大の田中投手のように大学野球で一気に才能が開花する選手が進学校には大勢いると思われます。
私はここで現役部員、そしてこれから神戸高校野球部に入部してくる後輩達に託したい思いがあります。それはぜひ大学でも野球を続けてほしいという希望です。
もちろん甲子園を目指して高校時代を一生懸命に頑張っていただきたいですし、そこで生まれた野球への情熱をぜひ大学野球でも活かしていただきたいのです。

私は、野球人生は自分さえ希望すれば生涯続くものと信じています。後輩達がこの先ずっと野球を愛し続けてもらえるよう、たとえ弱いチームでも大学で野球を続けていただきたいと思います。ひょっとすると大学で高校時代にはわからなかった野球の素晴らしさにめぐり会うかもしれません。そしてその才能を発揮するかもしれません。ぜひ活躍を期待します。

現在、神戸高校野球部監督の鍋野先生は私の二学年上の副主将でした。現役で国立大に合格され大学でも野球を続けておられました。鍋野先生は大学生になっても我々後輩チームをいつも気にかけて下さり、どの先輩よりも練習に来られては面倒を見て下さいました。
私は今でも当時の先輩のご指導に感謝するとともに鍋野先生であればきっと高校生活だけでは終わらない、大学でも新たな思いでプレーを続けていけるような「希望を持った野球人生の土壌」を築いて下さると思います。
影ながらではありますが、卒業以来ずっと熱い思いで我が母校、兵庫県立神戸高等学校野球部を応援してきました。これからもその思いは変わりません。
私ができなかった夢をいつか後輩達が実現してくれると信じています。
最後に
阪神・淡路大震災から今年で二十年、私の医院は被害が最も大きかった地区の一つである神戸市長田区にあります。私を含め震災以前の兵庫県内の高校球児にとって、大変思い入れの深い「神戸市民球場」は震災後、仮設住宅が建てられ、その後、残念ながら取り壊されてしまいました。今は立派な公園が建設され、地域の憩いの場所になっています。職場から徒歩圏内にある公園内の周回コースは現在マラソンを趣味にしている私の練習場所でもあります。
高校を卒業し30年近く経ちますが市民球場への思い出は今も色褪せることはありません。ランニングしながらもたびたび当時の状況が蘇ってくることがあります。
コンクリートのフェンス、アナログなスコアボード、そしてサイレンの音まで。
~夏の選手権予選、兵庫高校との定期戦~嬉しい思い出も悔しい思い出もそれぞれが沢山つまった市民球場の面影はすっかり無くなってしまいましたが、今もこの場所を毎日のように訪れることができる境遇を不思議に思い感謝をしています。